キャンプ旅に行こう 2010年・四国の旅日記です。
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2010 四国の旅

6月2日 その1

今日の宿泊地は徳島県阿南市。少々距離があるので移動がメインになるのは仕方がないが、そうは言っても面白そうなスポットがあったら立ち寄ってみたいな…等と考えながら、須崎東ICから高速に入る。

例年通り南国ICで降りて国道55号を室戸方面に向かい、安田町から県道12号を北上する。この先ガソリンスタンドが殆ど無い事は分かっていたので、県道に入って最初のスタンドで給油するが…4リットルも入らなかった(汗)

最初の目的地は馬路の復元森林鉄道。1〜1.5車線の県道を走っていると、道路左側にいきなりトンネルがヌッと現れる。大きさからこのトンネルが森林鉄道のトンネルであることはすぐに分かった。

坑口の脇の案内看板によると平瀬隧道と言い、幅3m高さ3.5m、全長70.6mで竣工は明治44年(!)。しかも開通当時そのままの姿という。

ここを通っていたのは、魚梁瀬森林鉄道・安田川線。他にもこの周辺地域には、森林鉄道が数多く張り巡らされていた。詳細を書くとキリがないのでウィキペディア等を参照・検索して下さいと言う事で…。

内部はひどい痛みも無く、保存状態は良好。最上部の煤けた部分は、使われていたSLの煤煙やDL(ディーゼル機関車)の排ガスによるものだろうか。

路盤はレール・枕木・バラストの痕跡は無く、すっかり土(と言うか泥)になっている。内部でカーブしているので反対側坑口からの光がほとんど見えず、ちょっと不気味な感じもある。

もちろんこの隧道は内部崩落は無く、現在でも通行可能。

内部から南側坑口を見ると、こんな感じ。道のすぐ横にあるので見落すことは無い。県道12号線のこの辺りは、調べた範囲では森林鉄道の路盤跡を転用したもの。

ただ、この道を好き好んで走るライダーもあまりいないような気もするが(苦笑)

北側坑口もまだまだしっかりしたもの。実はこの平瀬隧道の少し南に赤いトラス橋があるのだが、それも森林鉄道の遺構でトンネルもある。

森林鉄道の遺構かな〜…と思いつつうっかりそのまま通り過ぎてしまったのだが、後で昭和4年竣工の古いトラス橋である事を知り、じっくり見ておかなかった事を激しく後悔する羽目になった…。

馬路の集落内には、観光用ではあるが復元された森林鉄道がある。一周300mで、完成したのは平成6年(現地案内看板より)。

小さな機関車が数両の客車を牽引するのだが、この機関車は一見蒸気機関車に見えるが中身はディーゼルで、大正年間に使われていた蒸気機関車を2/3サイズで復元したものとか。なかなか可愛らしい形をしている。

復元森林鉄道の脇には鮮やかな赤に塗られたインクラインもある。これも観光用で、水の重さを利用した無動力ケーブルカー。長さは92m。

井戸のつるべのように客車と重量車がワイヤーの両端に接続されており、登る時は客車の水タンク内から水を抜いて重量車より軽くして上昇、降りる時は客車の水タンクに注水して重量車より重くして降りるというもの。もちろんスピード調整用のブレーキもある。

昔は運び出す丸太自体の重さを利用したケーブルカーがあったそうで、それを水に変えて再現したもの。

近くでみると、排出した水を受け止める管があるのが分かる。ちなみに重量車用のレールは客車用のレールの下にある二階建て構造になっている。

復元森林鉄道共々乗ってみたかったのだが…さすがに一人で乗るのもアレなので、今回は残念ながらパス。

森林鉄道は駅側から見て右側は道路に沿う形に敷設されているが、レールの外側に添うように木の板と言うか棒がレールと一緒に固定されている。

理由は分からないが、何かメンテナンス面でのメリットがあるのかな…?

そして、見ての通り線路脇にディーゼル機関車が展示されている。

案内看板によると昭和50年製造で、元々は建設会社のトンネル工事坑内用機関車だったそう。平成元年までトンネル工事で活躍した後に馬路村が買い取り、静態保存されているとの事。

ただ全体が汚れていて、実態は放置に近いような気もする。一応屋根があるから、その分痛みの進行は遅らせられるだろうけど。

そして線路のすぐ外側に、復元住居もある。予備知識無しでいきなり行ったので最初は復元住宅と気づかず、単なる廃屋かと思ってしまった(汗)

廃屋にしては保存状態が良いなぁ…と思ったら、脇に案内看板があるのに気が付いた次第(苦笑)

案内看板によると150年前に建てられ、平成6年に8km程北にある河原地区から移設されたもので、建設当時のままの姿を保っているとの事だが…。

切妻作りとも書かれていたので、奥の建物がそうらしい。手前の建物はガラスが入っているから、奥の建物よりは新しいだろう。

もっと近くから撮った写真があったら良かったのだが、撮り忘れたために写真はこれだけ。

奥の小さい家は大きさが桁行4間半(約8.2m)、梁間3間半(約6.4m)程。天保年間は12人ほど、昭和に入ってからも7人ほどで暮らしていたそうだけど、一人一部屋が普通の今の時代じゃ考えられない。

間取りは客間・囲炉裏の間・土間・奥の間・味噌蔵・物置との事だけど、具体的にどうなっているのか見てみたかった。

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